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2014年05月12日

200万 貸金の顛末

 今からちょうど30年前、私は29歳の歳に父を亡くし、その悲しみも癒えぬわずか9ヶ月後に母を亡くした。
その時が私の人生で1番淋しい時であったように思う。母は待ち望んでいた2人目の孫も見ることなく逝ってしまった。
 母が入院していた当時、私の家内は2番目の子を宿していて、4歳ちょっとの長男
200万 貸金の顛末

疲れているのか爆睡中の親子(長男
の手を引き大きいお腹を抱え、交通の便の悪い首里崎山のアパートから西原の琉大病院まで母の看病に通ってくれた妻には今でも感謝している。家内のお母さんも49歳の歳に脳溢血で倒れてそれからずっと入退院を繰り返している状態であったが、その義母も私の次女がお腹にいる頃亡くなってしまった。・・・我が家は亡くなったり生まれたりの繰り返しが続いた・・・だからであろうか、うちの子供たちシーミーとかお盆の「うさんれー」のご馳走が大好きであるピース。特に次女は三枚肉と揚げどうふには目がない。
 話がだいぶ横道に逸れてしまったが、母は貧しい生活の中からそれこそ爪に火を灯すような思いで少しばかりの預金を残してくれていた。
 その当時郷里の3つ先輩、言っても私とは同級生のように付き合ってくれて彼の結婚式の嘉礼(かりー)も私が三線を弾いてつけてあげたくらい親しく付き合っていた
200万 貸金の顛末


高校の体育祭でエイサー・・・本部のエイサーは手踊りです、楽しかったなー・・・



 その彼は正義感が強くまた商才にも長けた男で、菓子パン会社の営業員から始まり5年もしないうちに、その頃からブームになりだしたカラオケ業界で会社を立ち上げ成功を納め、台湾の業界にも打って出た彼はかなりの財を築き、あれよあれよというまに時代の寵児となり同郷の同輩、後輩の羨望を一身に集めた快男児であった。彼の活躍、栄枯盛衰記は後に譲り話を本題に戻すと、彼は留まる事を知らぬ野望の果てにクラブ経営(那覇でも有名な高級クラブ)や慣れない手形取引等、により最終的には破滅に至るのであるが・・・・その彼に私と同期の弟がいて大の親友であった、兄の下で営業部長として辣腕を奮っていた彼・・・Sと呼ぶことにする・・・が兄の会社の倒産の憂き目に遭いにっちもさっちも行かない時に相談を受けた私は「若気の至り」からか或いは単なる正義感か、はたまた
200万 貸金の顛末


              「紫」のチビさん
「いいカッコしい」だったのか、事もあろうに虎の子の母の金から200万をSに貸すことにしたのである。30年前の200万と言えば今で換算するといくらであろうか?私の大学の学費が年間3万6千であった頃の話である。
 さあ、この金をSはどのように運用したのか、そして私はその金を返してもらえたのか?・・・続きは次回に譲りたい。


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Posted by 阿麻和利 at 23:34│Comments(2)ひとり言
この記事へのコメント
阿麻和利様

久々に ブログを拝見しましたら いっぱい更新されていました~♪

また 楽しませて頂きま~す(⌒⌒)ノ❀
Posted by まなびだるまなびだる at 2014年05月13日 21:52
なるべく更新は遅滞なくやりたいと思います。これからもよろしくご愛読下さい。
Posted by 阿麻和利阿麻和利 at 2014年05月14日 21:05
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